2011年4月29日金曜日

天に問う、なぜそこまで眉が濃いのか。

早急にモスキート対策をしないとどこかで絶対マラリアにかかる。と悩みながら安宿のベッドの上で、いまこの日記を書いています。私が居る部屋は内装が少し狂っているとはいえ、500円のわりにはベッドもシャワーも快適なのですが、蚊が多いことだけには辟易させられます。



思えばこの町もまた、つまづきながらのスタートではありました。乗りたくもない飛行機に乗って20時頃空港に着き、オートリクシャーの運転手と長い時間交渉をしたうえで1600円から600円まで運賃を下げてもらい、いざ出発、となったは良いが運転手はホテルの場所がわからない。


みなとみらい周辺を縄張りとしていて普段は一切そこから外には出ない運転手に、鎌倉まで行けと命じるが金払いは悪く、やっとのことで鎌倉に着いたと思ったら「すまん、江ノ島だった」と言い出す、という極めてタチの悪い乗客になってしまったことがあとからわかりました。鎌倉で二回、江ノ島で十回以上、路上の通行人に道を尋ねる運転手。タミル語なので私にはわからないけれど、親指を立ててオーケー!と言うからなんとかなったのだろうと期待するもすぐに裏切られまた立ち止まる。


まったく進展が見られないので、私も地図とヘッドライトと方位磁石を駆使して独自に調査を開始。そっちじゃなくてあっちだ、俺は何回もここに来たことがあるからわかる、俺を信じて進め!などといい加減なことをまくし立てながら指示をだし、22時過ぎになんとか目当てのホテルにたどり着いたのでした。さすがに1000円払った。


今回訪れたのはコーチンという港町。ここからさらにバスで1時間ほどのところにあるアレッピーという町で、ヤシの木の間を流れる運河をボートで行き来する、バックウォーター・クルージングに参加するためにはるばるやって来たのでした。重たい荷物はコーチンの宿に置かせてもらい、前日からアレッピー入り、一泊したのちに朝早くから並んでいい席を確保、南国の雰囲気を満喫した後にコーチンへ戻る、というプランはしかし、アレッピーに着いた途端に音を立てて崩れました。




明日は州をあげてのストライキの日だからバスもボートも動かないぜ、ところでお前は日本人か?というホテルの客引きの話し声をシカトして、地域観光振興協議会のドアを叩き、バックウォーター・クルーズに参加したいのだが……と切り出すと、明日はストライキ、というのがオフィシャル・インフォメーションだったことが判明、即効でコーチン戻りのバスに飛び乗ったのでした。アレッピーでの滞在時間約10分。いい町でしたよ。のんびりしていて。


というわけで何もやることがなくなったわたしは、ホテルの近所のカフェでフリーダ・カーロの画集を眺めながらフレンチトーストを食べ、これがこのインド旅行のハイライトなのか?と天に問うていました。ちなみにこのカフェに限らず、コーチンはアートが盛んな町で、至るところにギャラリーやらカフェやらがあります。インド・コンテンポラリーアートが日本でどのような文脈で紹介されているのか、に興味がわいたのでどなたか調べてリプライください。




とはいえ、なにはともあれコーチンは港町です。実は、鎌倉から江ノ島はボートで10分程度の距離だったことがあとから判明しました。運賃は不気味なくらい安く(10円しません。10円しないチケットのために30分以上並ぶのがいかにもインドらしい馬鹿馬鹿しさで大変素晴らしいと思います)、この町の移動の足はボートだということがよくわかります。さすがに「クルージング」とは呼べませんが、私は何回もボートに乗ることができました。


また、レストランで食べた魚のカレーはとても美味しく、レモンライスとともにおかわりをしてしまいました(カレーはおかわりするもの、という小学生以来の固定観念がインドに来て崩壊、これが人生観が変わる、というやつかとしみじみしていたものですが、やはり美味しければおかわりしたくなるのがカレーというものです)。


レストランからホテルへの帰り道、ガソリンスタンドの奥の海辺に人が集まっているのを発見し近寄ってみると、紐と針と餌だけという最も原始的なやり方でつまらなそうに釣りをしていました。そのようなスタンスでも魚はわりと頻繁に釣れるらしく、ときおり紐を持ち上げては魚をはぎとり、コンクリートの地面に何度も叩きつけて殺していました。

2011年4月15日金曜日

エアロスミスでハッピーバースデイ

着物に驚いて話しかけてくるインド人にもそろそろ慣れてきて、写真をとらせて欲しいと言われるやいなやすばやく日本人らしい姿勢(右拳を前に突き出す等)をしてあげるのも上手になってきましたが、"KIMONO"という単語を知っているインド人に会ったのは今回が初めてです。


ニューデリー駅から西に伸びる、野良牛と蚊とゴミと安宿とバイクと各種店舗とバックパッカーが山のように共存しているメインバザールという通りを歩いていたら、それは着物か?と話しかけてきたインド人が居ました。実際にジャパニーズ・トラディショナル・ウェアを見たのは初めてだ、と驚いていましたが、写真を撮りたいというそぶりも見せず(デジカメ、ケータイを持っていない方でした)、チャイを奢ってやるというので、彼が店番をしている絨毯屋までのこのことついていくことに。


着物が素敵、髭が素敵、帽子が素敵、とひととおりのほめ言葉を頂戴したのちに、彼と、彼と同棲しているイングランド人と三人でチャイを飲みながら、彼の出身地であるカシミール地方のことや、ヒマラヤ山脈の話をしていくなかで、どうやら彼には多くの日本人の友達がいるということがわかってきました。彼の英語はインド人にしてはめずらしく聞き取りやすく、また日本語の単語も少しだけ理解している(いち、からじゅう、まで数えてくれました)、とても優秀な人でした。


偶然にも今日が誕生日だということで、予定がなければうちに来い、と誘ってくれました。テキトウにそこらへんで晩飯を食べて、映画を見に行くか筋トレでもするかと思っていた程度だったのでその誘いに乗り、オートリクシャーに乗って、彼の歌声や怒鳴り声を聴きながらデリー郊外まで連れて行ってもらいます。


家はきわめて質素ではあるものの、わりと広いベランダがあって、汚い夜空と汚い近所の様子が見えます。彼の彼女のイングランド人がパソコンを持ってきて、好きなEnglish artistは誰か、と聴くので、とっさにヴェルヴェット・アンダーグラウンドと答えてしまい、すぐに何を言ってるんだ私はと後悔しましたが、彼女はヴェルヴェット・アンダーグラウンドはないけどエアロスミスはある、と言ってiTunesを起動して、音楽を流してくれました。


ビールと、チキンカレーと、スナック菓子と、冷蔵庫で冷やした水道水で、野良猫も交えて屋外のベランダでディナーがはじまります。エアロスミスをガンガンにかけながら、そして無数の蚊をガンガン殺しながら、ヒマラヤは良い所だからぜひ一度来い、でも俺はマフィアじゃないからお前を無理やり連れて行くつもりはない、と彼は言ってくれました。今晩泊まって行くか?とも誘ってくれましたが(ビールの瓶がすべて空になったのが0時近かったので)、それは遠慮して、彼が手配してくれたオートリクシャーで、地元民価格(たぶん自分で交渉したら5倍は払わさせられていました)で宿まで戻りました。


インドでは、このようにめちゃくちゃ楽しい時間と、めちゃくちゃめんどくさい時間が交互に訪れるので、あーインド嫌だな早く次行きたいという思いと、あれインド結構好きかもという思いが、ひっきりなしに入れ替わります。あと3週間ほどいる予定なので、あと約300回くらいインドが嫌いになり、約300回くらいインドが好きになるだろうと思います。


長くなりましたが、最後に、彼の25回目の誕生日を改めて祝福するとともに、この度の震災で亡くなった、彼の友達である二人の日本人に追悼と、そして感謝の念をささげます。あなたたちの礼儀正しい振る舞いのおかげで、彼は私にとても良くしてくれました。でも、"KIMONO"という単語を教えたのがあなたたちだったのかもしれないと想像すると、私はちょっとどうしたらいいかわからなくなります。