2011年8月17日水曜日

ダハブゲーム

ダハブゲームという遊びがある。参加人数分のトランプカードを用意し、そのうち二枚をキング、残りを平のカードにして配る。自分のカードを確認したあと、それをふせたまま自由に会話をし、誰がキングかを推理していくというものだ。あらかた会話が終わったところで各自が怪しいと思う人物に投票し、一番票が集まった人が殺される。一人脱落したあと、再び会話→投票の流れとなり、これを繰り返していく。うまくキングを二人とも殺したら平民たちの勝ち、誤って平民を殺し続け人数が少なくなって投票行為が不可能になったらキング側の勝ちとなる。

(参加人数が増えるとキングが3枚以上になったり、平民のなかには他人のカードを一枚だけ見られる「ジョーカー」「エース」を入れることもあったり、その他細かいルールがいくつかあるが、今回はゲームの紹介というよりこのゲームについて思ったことを述べたいので細部は省略する)


まだ一回しかゲームに参加していないうえに、ルールを文章で説明するのはなかなか難しいがうまく伝わっているだろうか。補足的かつ重要なルールとしては、カードが配られたあと「顔上げタイム」というものがあり、全員が顔を伏せた状態で、キングだけが顔をあげることができる。つまり、キング同士はお互いを確認できる。ダハブゲームは、一言で言えば平民とキングの戦いのゲームなのだが、キング同士がこのようにタッグを組んで必死に疑いを自分たちからそらそうとするのに対し、平民たちはスタートの時点では、自分以外は誰も信じられない仕組みになっている。平民たちは結束できない。ではどうするか。論理と空気の二つに従って投票をする。ここがこのゲームのポイントである。


自由会話タイムの序盤は、まだとくに手がかりもないので本当にダラダラ会話をする。例えば、ゲームは近所のレストランで行うのだが、「ご飯が一番最初に出てきたからお前はキングなんじゃないか?」みたいなデタラメな推理が行われる。疑われたほうが、「違いますよ何言ってるんですか(笑)」と軽くうけながす。ところが不思議なもので、全員の視線が集まるとけっこう緊張して、たとえ本当にキングではなく平民だったとしてもしどろもどろになってしまうこともある。こうして軽く疑惑が深まる。私が参加した回でも、普段からいじられキャラの二人は無根拠に疑われ苦労していた(結果的にキングではなかった)。



私は最初、このゲームはなんて日本的なのだろうと思った。つまり、論理的であろうがなかろうが、こいつが怪しいという「空気」が作られれば、その人に票が集まってしまう。他人について推理するのと違い、自分はキングではない(=平民である)ということを証明することは原理的に難しいので、説得的な言い訳ができないまま投票タイムに突入し、声が大きく弁が立つひとの意見に多数の人間は流され投票していまう。このような風景を実社会に見出すひとは私だけではないのではないかと思う。


ところが、人数がしぼられてくるに従って意見が変わった。繰り返しになるがこのゲームはキング対平民という構図である。平民は必死に推理をして、誰が怪しい彼が怪しいと「論理」で攻める。信じられるのは自分だけなので、自分のなかで確信が持てるまで推理を深める。ところが、キングは同じことを原理的にできない。なぜなら、彼は平民に対して「あいつがキングだ」と間違ったことを言わなくてはならないからだ。つまりキングの論理にはかならず飛躍、穴ができる。そして、その「あいつ」は恣意的に選ばれる。ゆえに、キングは「空気」を動かして人々を動員する、そういう性質を必然的にはらむことになる。そう、このゲームはキングたちが作り出す「空気」を、平民が「論理」でもって孤独に切り込み、崩せるかどうかという戦いなのだ。


ゲームの結果を述べると、平民であった私は「空気」に流されてしまいキングを殺せなかった。ゲームはキングの勝ちとなった。前述のような、このゲームの本質にもう少し早く気づいていればもう少し結果は違ったものになっていたかと思うととても悔しい。あとから分析すると、自分がさまざまなバイアスにとらわれ、正確な判断ができていなかったことがわかった。相手の表情や態度から「なんとなく怪しい」と思い込み、他人の発言の論理的整合性を十分に分析するのを怠っていた。


論理を貫けば平民が勝てる、というのは美しいと思う。もちろんこのゲームには心理の読み合いという魅力もあるが、私はそれよりも純粋に発言を取り出して論理の流れをチェックする方が性に合っている。次回また平民になったらぜひ論理でキングを殺したい。もちろんキングのカードをひけば、空気をつくり、スケープゴートを作る側にまわることになるのだが、それはそれでおもしろそうだ。浮気を隠すトレーニングにもなるだろう。なにせダハブは恋のまち。

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